達しぬいた点前になれば
 いかなる名器、名物が
 飾られ用いられていようとも
 一切が有ってないものに
 することができる

     千利休「秀吉と利休/野上弥生子著」より


 

私が30代後半に千利休に惹かれていったきっかけの言葉だ。

考えれば考えるほど深く、そして強く私の心を支配していった。

そして、ひとつのことを ずーっとやり続ける大切さ、おもしろさも、もうゆるぎないものとなっている。

先日その念願の千利休屋敷跡を訪ねることができた。




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🔹千利休屋敷跡

それはビルと民家の隙間に窮屈そうに、でもおだやかに。この記録は2007年のもので、今は随分奇麗になっているようだ。 

⊳今の様子

 

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千利休屋敷跡の碑<2007年>

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石畳の先に利休が茶の湯に使った椿の井戸、灯篭がそっと寄り添っていた。
 

前に立っていた木の解説看板によると


堺の豪商魚屋の長男として生まれた与四郎は初め北向道陳に茶湯を学んだが、更に道陳の師武野紹鴎に師事し遂に「わび茶」を大成させた。 

 

千与四郎は、茶名千宗易といい、信長・秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇より利休居士号を賜った。また壮年時には抛筌斎(ほうせんさい)とも号してい た。





天正15年/1587年10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席をもうけるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、わび・さびの境地をきりひらいた。

その根底には、大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたことが考えられる。






天正19年/1591年2月秀吉の怒りをかい京都から追放され堺にて謹慎していたが、京都に呼び戻され同月28日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられた。

この屋敷跡には、利休が茶湯に常用していたといわれる椿井が、また南宗寺には実相庵と称する二畳台目の茶席(塩穴寺より明治九年南宗寺に移築、第二次大戦で焼 失昭和三十五年七月復典)がある。   
     
     『千利休屋敷跡案内板』より



⊳千利休屋敷跡 
⊳2020年現在の写真たち

大阪府堺市堺区宿院町西1-17-1
阪堺電軌阪堺線宿院駅からすぐ
駐車場なし

  2007年4月8日


今日の行程MAP


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