雨の降りしきる中、一抹の戦慄を感じつつ4km以上歩き続け、ようやく人里に来た。

武庫川沿いの遊歩道の右側のスロープを上がると集落に出る。

そこは名塩木之元、もう少しで生瀬になるあたりだ。武田尾からは一駅半といったところ。 そこは実に歴史深い場所だった。

▼美しい渓谷とトンネルの恐怖

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一際目立っていた古民家


武田尾から旧線路沿いを歩いてきた武庫川の堤防沿いから上がって来ると、この素敵な古民家のすぐ近くに出る。

もともと塩瀬町は京都と丹波道、有馬道を結ぶ要所の宿場町であったというから、昔からのこういった民家も点在していたのだろう。

▼塩瀬町のことが綺麗にまとめてある



🔷木之元地蔵尊 木元寺

西山浄土宗で、本尊は阿弥陀如来


武庫川堤防からは国道176号線を挟んで向かい側にある。

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ここに聖徳太子が一本の木から三体の地蔵尊を造られたといわれている日本三体地蔵の一つがある。

あとの二ヶ所は近江国木の本、紀伊の国木の本だというがイマイチ情報が見当たらない。

室町時代の摂津、播磨、備前美作(みまさか)を支配する守護大名であった赤松則村円心(のりむらえんしん)が勝軍地蔵として伽藍をここに創建、当時は真言寺院だったという。 

皮肉にも1441年の嘉吉の乱にて、山名持豊に追われ、この地で円心の孫にあたる赤松満政一族が自害した。

また、火事から赤ん坊を守ったという伝説から「火伏地蔵」と呼び親しまれており、その時に付いた傷跡が今も地蔵尊の頬と左の衣に残っているが、秀吉の三木城攻めの兵火で焼け残った(寺は焼失)折のものなのかもしれない。




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創建当時は真言の寺院で、後に天台に替わり、荒廃した寺を再興し、今は西山浄土宗となっている。

山号の琴鳴山には悲しい伝説がある。 

それは平安時代のはなし

京の都より許されない二人、左大臣萬里小路盛通(まりこうじもりみち)の子、通磨 (みちまろ)という若者が、美しい歌女、浅茅(あさじ)とかけおちをした。

有馬で暮らすうち通磨が病死、母子が都に戻ろうと蓬莱峡を下るうちに今度は赤子が死んだ。女は山に登り琴を奏でて命を絶った。

それからは、このあたりを通る旅人の耳に、この山から悲しげな琴の音と、母を慕って泣く赤子の声が聞こえるようになったという。

今も176号線の青葉台あたりから左に有馬街道に入り、少し進んだあたり左手に赤子谷、そして右上の山が琴鳴山と地名が 残っている。



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本堂 

赤松満政が戦いに敗れてこの地で自害し(124人)、それを供養するために討手の有馬郡領主赤松持家が建立したと言われている。

五輪塔三基(一族郎党の墓)と十三重の塔(満政父子の墓)が残っている。

 

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本堂の裏にある不動明王

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その右横にある小さな磨崖仏、大正十年とある。

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目を閉じている石仏

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観音堂(元本堂) 

元は本尊地蔵菩薩をお祀り致していたお堂で、現在は千手観世音菩薩をお祀り致しいる。

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本堂に対峙する位置の「鏡」と刻まれた五つの顔の石碑。詳細は不明 
  
やはり古くは宿場町であったあたりは歴史が色濃く伝承されている。名塩、生瀬を含む摂津国有馬郡の歴史を知ることができるサイトを貼っておく。


 
  2012年4月16日 参拝


この日の行程MAP 



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