達しぬいた点前になれば、いかなる名器、名物が飾られ、用いられていようとも

     一切が有ってないものにすることができる


                                                千利休「秀吉と利休/野上弥生子著」より

 

千利休さんに惹かれていったきっかけの言葉です。

考えれば考えるほど深く、そして強く僕の心を支配していきました。そして、ひとつのことを ずーっとやり続ける大切さ、おもしろさも、もうゆるぎないものとなっています。

先日その念願の「千利休屋敷跡」を訪ねることができました。


今日の行程

それはビル と民家の隙間に窮屈そうに、でもおだやかに。<この記録は2007年のものです、今は随分奇麗になっているようです⊳今の様子

 

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千利休屋敷跡

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石畳の先に利休さんが茶の湯に使った椿の井戸があって、灯篭がそっと寄り添っていた。
 

前に立っていた木の看板にこうありました


堺の豪商魚屋の長男として生まれた与四郎は初め北向道陳に茶湯を学んだが、更に道陳の師武野紹鴎に師事し、遂に「わび茶」を大成させた。  

千与四 郎は、茶名千宗易といい、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇より利休居士号を賜った。また、壮年時には抛筌斎(ほうせんさい)とも号してい た。  

天正十五年(1587)10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席をもうけるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこ らし、わび・さびの境地をきりひらいた。その根底には、大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたことが考えられる。

その後天正十九年 (1591)2月秀吉の怒りをかい京都から追放され堺にて謹慎していたが、京都に呼び戻され同月28日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられた。

この 屋敷跡には、利休が茶湯に常用していたといわれる椿井が、また南宗寺には実相庵と称する二畳台目の茶席(塩穴寺より明治九年南宗寺に移築、第二次大戦で焼 失昭和三十五年七月復典)がある。   
                     『千利休屋敷跡案内板』より



千利休屋敷跡 ⊳2020年現在の写真たち

大阪府堺市堺区宿院町西1-17-1
阪堺電軌阪堺線宿院駅からすぐ
駐車場 なし

                     2007年4月8日
                    

 

<2020年追記>2020年4月1日より堺は政令指定都市の仲間入りを果しました。